楽しい時間のためのリスクと寂しさの話

正直、土日よりも金曜日の方が好きです。

金曜日はこれから休みに突入するという高揚感を

目一杯感じることができますが、

土曜日に突入してしまうと、

あとどれくらいで休みが終わってしまうのかを

数えてしまいます。

確かに楽しいんだけど、終わりが見えてるから頑張って

楽しもうとしてるような感じも少しあります。

だから土日は金曜日を楽しむために存在するのだ

と考えています。

土日は休みではありません。

 

とは言っても、土曜日もまだ翌日に日曜日を控えているので

十分に楽しむ余地のある日です。

ということで昨日はしっかりと休日をしていました。

ぷらぷらと散歩して、スマホで野球を見つつカフェで読書、

夕方からは友達を誘って安い居酒屋で仕事の愚痴を言い合う。

そんな平凡な休日を過ごしていました。

 

そんな休日を過ごしていたらふと思ったんですけど、

友達を誘うって結構ハードル高いです。

昨日、急に誰かと話をしたくなって、

仲の良い友達を二人誘ったら、

見事に二人とも来てくれる

という奇跡が起きたのですが、

誘うの意外と勇気がいりました。

勇気出さないと誘えない程度なら友達じゃないじゃん、

とも思われそうですがそれは違います。

友達だからこそ難しいのです。

 

友達って失いたくないじゃないですか。

失いたくないものは大事に扱いますよね。

だから誘うタイミングを間違えて、

「こいつと会うの面倒くさいな。」

と思われたくないんです。

そして一番怖いことは、

「面倒くさいけど行ってやるか。」

と思われることです。

これは相手に我慢をさせていることであり、

僕はこのような小さな我慢の積み重ねが破たんを

生むと思っています。

だから、行きたくないのであれば

「面倒くさいから行かない」

と言って欲しいです。

でもそれは難しいのではないかと考えます。

なぜなら、逆に僕が誘われたら、多少面倒くさい

と思っていてもおそらく行くからです。

相手にあまり不快な思いをさせたくないからです。

 

これは矛盾です。

気遣いの矛盾です。

 

もし地球上の全員が僕だったら、

誘う側も誘われる側も相手に気を遣い過ぎて、

逆に相手の首を絞める結果になります。

 

僕Aは

「嫌なら断って欲しいな。」

と思いながら誘う。

誘われた僕Bは

「断ったら嫌われそうだから行こう。」

と思いながら行く。

結果として、僕Aの望みも僕Bの望みも叶わない、

悲しい現実が出来上がります。

 

相手が必ずしも僕と同じような考え方をするとは

限りませんが、(というか普通はしないと思う・・・)

もし、同じ考えをする人であれば、

誘った時点で相手に不本意な付き合いを

強制している可能性が高い訳です。

それならば、はじめから誘わない方がいいのでは?

と思ってしまいます。

 

それでもあえて誘ったのだから、

彼らは友達としてはかなり誘いたい部類の

人間なのです。

リスクを冒してでも誘いた友達です。

 

結果として、友達と飲んでいる時間は、

めちゃくちゃ楽しかったです。

だから、楽しい時間を得るには、

冒険をしてみるべきなんだと思います。

(相手は楽しんでないかもしれないという考えが

さっきから頭の中を猛スピードで駆け巡っていますが、

さすがにそんなやつ相手にしてられません。)

 

でも、楽しい時間を過ごした後の寂しさって

ありますよね。

なんなら、楽しんでいる途中からすでに寂しい。

「あと40分で終わりか・・・」

と思うと楽しみが少し減ってしまいます。

むしろ誘ってから、飲み会まで時間を潰している時間の方が

純粋に楽しみを享受している気がする。

 

楽しみが待っている土日休みの前の金曜日も

約束をしてから飲み会が始まるまでの時間も、

実際に楽しい時間が始まるよりも楽しい時間な気がします。

僕が何か楽しいことをするときに本当に求めているものって、

楽しみを待っている間の、

じれったくて、でも心が躍らずにはいられない

あの時間なのかもしれません。

 

 

 

モチベーションが高いやつの話

1週間乗り切りました。

乗り切ったと言ってもたいしたことはしていません。

デスクワークを8時間とちょっと、それを5日間続けただけです。

でも、お金のためとはいえ脳みそ使ってトータル40時間以上働いたんだから褒めてあげてもいいと思うんです。誰も褒めてくれないので僕が、自分で、褒めます。

 

よく頑張った。

 

 

僕はモチベーションが高い人間に出会うと気後れしてしまいます。

なぜなら、自分が頑張れていないような気になるからです。

では、僕自身が万物に対してモチベーションが低いのかというとそんなことはありません。

仕事においても、「早く先輩たちに追いつき、戦力として認められたい」という極めて健全なことを思っており、モチベーションもそれなりに高いのではないかと思います。

友達を作ることにも積極的で、知っている人が少ない飲み会にも参加して、交友関係を広げようとしています。失敗することも多いけど。

趣味もあります。野球、読書、散歩、カフェ巡りなどなど。それぞれに対して、趣味といえど、真面目に取り組んでいます。

 

だから、僕自身はそこまでモチベーションの低い人間ではありません。

それでもモチベーションが高い人達に気後れしてしまうのは、僕が正直過ぎたからだと思っています。

というのは、モチベーションの高い人達は、自分のやる気もステータスの一部だと思っている節があるので、一生懸命さをそれはそれは一生懸命アピールします。たとえば、職場に誰よりも早く来たり、雑用を自ら進んで引き受けたり、説明会でやたらと質問したりです。それを、胡散臭いな、と切れ捨てられる人間だったら気後れはしません。胡散臭いやつと出会っただけです。

でも僕はそのような人に出会うとその一生懸命さを本当に尊敬してしまいます。

もちろん、やる気が空回りしている様子に痛々しさを覚えることもありますが、それでも心のどこかでは羨ましく思っています。

そして、そう思う僕の方が彼らに対する態度として正しいとも思っています。

だって、雑用引き受けたり、説明会で質問したりする人は純粋に凄いじゃないですか。

自分がやるべきと思ったことを素直にやれる能力は本当に羨ましい。

正直、嫉妬してしまいます。

 

だから、そのような人に出会うと自分のちっぽけさに嫌気がさします。

どうして、「上司にゴマすってるところを同僚に見られたくないから雑用を引き受けるのはやめよう」とか「分からないところがあるけど、こんなことも分からないとばれるからやめよう」とか思ってしまうのだろうと頭を抱えてしまいます。

 

それが溜まりに溜まって、モチベーションが高い人を見ると気後れしてしまう体質が出来上がりました。

 

でも、こんなイチャモンを付けることもできます。モチベーションが高いのはいいことだけど、それをアピールするのは果たしていいことなのかは疑問だよ、。

モチベーションをやたらにアピールするということは、ある種のマウンティングです。

「お前よりも俺は頑張っているぞ」と周囲に自分より下であることを自覚させようとするのです。

マーキングでもあるかもしれません。上司、同僚に自分は頑張っている人間なんだと思わせることによって、自分の縄張りを作っているのです。上司と同僚に小便をひっかけてるようなもんです。

先ほど挙げた例もそうですが、モチベーションのアピールは過程のアピールです。

「結果は分からんけど、俺はこれだけ頑張ってるから偉いよ」ということです。

これはよくよく考えるとおかしい話で、アピールしなければいけないのは結果です。

結果を出さずにアピールしているというのは詐欺みたいなはなしです。

だから、モチベーションの高さがにじみ出ている人は一種の悪なのです。

 

しかし、もちろんこれはただの負け惜しみにしかなりません。

だって、彼らは得てしてアピールをしているのではなく、自然な振る舞いがアピールになってしまうのです。

また、過程をアピールをするということは、自分の身を守るために社会人として当然やらなくてはいけないことで、「報告・連絡・相談」という名前で教え込まれるものです。それができるという点だけで十分に優秀な人材です。

そして、それができるひとは大体結果も出せます。

当たり前です。正しいことを正しくしているのだから。

 

どうあがいても、モチベーションが高いやつを見下して自分の精神衛生を清潔な状態に戻すのは無理そうです。

 

だから、他人についてあれこれ考えるのはやめて、僕なりに頑張ったことに満足したいと思います。

社会人になる前の僕よりは少しまともな人間になっている気がするので、合格です。

でもそれを褒めてあげられるのは僕しかいません。だから最後にもう一度褒めてやろうと思います。

 

よく頑張った。

働くニート

働き始めて早2か月が過ぎ、会社の空気と自分の空気が違和感なく混ざりあってきている。

はじめは自分だけがよそ者であるかのような感覚に耐え難い苦痛を感じていたけれど、今は自分の立ち位置みたいなのができてきて、それに見合った行動ができ始めている。

 

仕事に慣れてきてもやっぱり働くのは辛い。1日8時間以上自分の時間が奪われるというのは、理不尽に感じてしまう。

しかし、その対価としてお金を貰う喜びもまた格別で、この麻薬にやられてみんな働いているんだなあと思う。

 

僕は、「働かない生き方」に強い憧れを持っていて、そのような生き方を実践している人の著作をたくさん読んだりしている。それ故に、今すぐに仕事がなくなってもぎりぎり生きていけるのではないか、という感覚を常に持っている。

なんなら、働かない方が幸せなのではとも思うときがある。しかし、仕事を辞めようと思ったことや、就職せずに旅に出ようなどと思ったことは一度もない。

それは、働くことでしか得られない喜びもきっとあるはずだ、希望を捨て切れていないからだ。働かないで暮らしている人たちが切り捨てた仕事というものを、僕はどうしても見捨てることができない。

 

だから今考えているのは、「普通に週5日働いている人間に、ニートの論理を組み込めないか」ということだ。ニートニートたる所以は、嫌なことに対する徹底的な逃亡である。仕事をしているとそれは難しいことも多いが、プライベートであれば実践できる。

飲み会を断る、遊びも時には断る、嫌いなやつとはつるまない、社員旅行には行かない、などなど。

このような実践の先にあるのは、究極的に自分のためだけの時間が増えるということだ。ニートニート中毒になるのはこれに尽きると思う。自分の時間を自分のために使うという実践ができれば、働いて収入を得ながらにしてニート的享楽も手に入れられる。

 

と、信じている。

プロ野球開幕!

ついにプロ野球が開幕!!

どうして野球はこんなにも面白いでしょうか?

パッと見、棒切れで球をぶっ叩くだけの遊びなんですけどね。

 

僕は横浜DeNAベイスターズのファンです。

神奈川県民というわけでもないので周囲に横浜ファンはいません。

孤独な闘いです。

最近は全国的にベイスターズファンが増加しているような気がするのでかつてほどの孤独感はありません。

しかし小学生の時はたった一人で毎年ゴミのような成績でシーズンを終えるこの球団を応援していました。今思うと変態です。

 

しかし、ベイスターズの魅力はその弱さや頼りなさにあったのかなとも思います。「判官びいき」という言葉もあるくらいだから、共感してくれる人も多いとは思います。

 

昨シーズン、初めてCSに進出したベイスターズの姿は、もう僕が半ばムキになりながら応援していた弱いベイスターズではありませんでした。そして、三浦大輔が引退し、ベイスターズの一時代が終わったように思います。

 

今シーズンもCS出場、リーグ優勝、日本一を目指して新しいベイスターズの姿を見せて欲しいものです。

 

なんかふわっとしたことを語りすぎました。もっと細かくエピソードとかを書きたかったんですけどもうすぐ開幕戦が始まってしまうのでここまでにします。

ポンコツ人間

僕は今年の4月から新社会人として働く。

世間体を考えると、申し分ない仕事に就く。威張れるほど凄くはないが、卑屈になるほど悪くはない、といった感じだ。

しかし、働くということそのものに対して不安がある僕にとって、そのことが逆に自分を苦しめる予感がしている。

 

まだ、アルバイトとしてしか働いたことはないが、おそらく僕は仕事ができない部類だ。

 

大学1、2年の時は予備校のチューターとして働いていた。

大学受験で第一志望に合格した僕は、通っていた予備校に誘われる形でアルバイトを始めた。

 

このときも最初は優秀な人間だと思われていたのである。

 

しかし、働き始めるとすぐにボロが出た。

報告書の提出期限に遅れる、形式を間違える、誤字、誤った数値で報告するなどなど、少し注意すればなんとかできるようなミスを繰り返した。そのたびに社員には怒られ、僕の精神はかなり疲弊してしまった。

 

自分ではかなり気を付けているつもりでも、適当にやってる人よりも多くのミスをしてしまう。本当に病気なんじゃないかと思ったこともあるくらいだ。

 

なぜミスをするのかを冷静に分析してみたことがある。すると、好きじゃないことや気が進まないことをやるときにミスを頻発するということに気が付いた。

確かに、やりたくないことをやるとき、脳にストップをかけられるような感覚に陥る。今まで正常に電気信号を伝達していた脳みそが、ところどころでショートを起こすのである。

 

このことから判断すると、僕は好きなこと以外は何もできない超ポンコツ人間なのだ。

そして、好きなことならボロが出ないため、本当にその企業に行きたいと思って受ける就職面接などには滅法強いのである。だから、自分の実力に見合わない場所に簡単に放り込まれるという性質を持っている。

仕事とは大半がやりたくないことだという。こんな僕が仕事をして、一人の大人として生計を立てていけるのだろうか。結局、最初に与えた印象を裏切る結果になるのではないだろうか。

私の日記

ブログを始めてみた。

特に書きたいテーマがあるわけでも、どうしても人に伝えたいことがあるわけでもない。

ただ、自分が感じていることを言語化して、客観視する場所が欲しかったのだ。

 

生きていると様々な「もやもや」にぶつかる。

暇に肉体を与えたような存在である私ですらそうなのだから、きっと世間の多くの人はさらに多くの「もやもや」にぶつかっているだろうと思う。

しかし、そんな「もやもや」も生活のなかに埋没してしまう。たかが「もやもや」に向き合うには、生活は忙しすぎる。

だから、思い立ったときに「もやもや」を言葉にして目に見える形にしたいと思った。

 

つまり、これは私の日記だ。

 

公開する必要もないのだけれど、人に読まれるかもしれないと思いながら書いた方が、言葉にならない感情や漠然とした思いを言語化することに真剣になれる気がする。